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新型ウイルスが浮き彫りにした日本の問題

=「正しさ」を疑え!小説家・真山仁=

2020年06月25日

新型ウイルス

客員主任研究員
田中 博

 世界に襲いかかってきた新型コロナウイルスの猛威は、単に経済機能をマヒさせただけでなく、人々の行動や考え方、社会の在り方にまで変容を迫っている。同時に、非常事態下においてさまざまな自由が制限されたことで、社会に内在していた矛盾も浮き彫りになった。日本も例外ではない。小説「ハゲタカ」シリーズなどを通して国の在り方を問うてきた、作家の真山仁氏に日本が抱える問題について話をうかがった。

写真(写真)ホンゴユウジ
(提供)真山仁事務所

真山 仁氏(まやま・じん)
 1962年大阪府生まれ。1987年同志社大学法学部政治学科卒業。同年中部読売新聞社(現読売新聞社中部支社)入社、1989年退社。フリーライターを経て、2004年「ハゲタカ」でデビュー。その後「ハゲタカⅡ」「レッドゾーン」「グリード」「シンドローム」までハゲタカシリーズ5刊を刊行。その他の著書に、日本の食と農業に焦点を当てた「黙示」、3・11後の政治を描いた「コラプティオ」、国家財政危機を題材にした「オペレーションZ」、東京五輪を舞台にした「トリガー」、再生医療の光と闇を描いた「神域」などがある。テレビの報道番組にもたびたび出演し、経済だけでなく、政治や社会問題など幅広いテーマに斬り込む論客でもある。

非常事態下で国の存在を意識

 ―コロナショックで日本のどんな問題があぶり出されたのか。

 ちょうど半年前、知り合いの大学生が「わたしたちは国家なんて要らないと思っている世代かもしれない。国が表に出てくるたびに面倒なことが起こる」と話すのを聞いてショックを受けた。

 今翻(ひるがえ)って考えると、日常が過ごしやすいから、背景に存在する国というものが見えてこなかったのだろう。日本は元々、潤沢なのは水ぐらいで、食料もエネルギーも安全保障も自立できていない。

 それなのに、一定の豊かさを保ち、システムが円滑に動いているため、大人を含めて国家の存在意義についてきちんと考える経験が乏しく、問題意識が芽生えなかった。

 新型コロナウイルスの蔓延が始まって、「ほかの国はもっと厳しく統制して命を守ってくれるのに日本は何でこんな甘いんだ」と、愕然とした日本人が多かったようだ。「国家なんて要らない」と思っていた人を含めてみなが抱いた。「ウイルスの感染を食い止めてほしい」「外国から人を入れてはいけない」といった要望に対し、うまく対応できなかったため、国に対する態度が豹変した。

 日本では第二次世界大戦の反省から、国家による強制は絶対に抜けない「刀」となっている。ところが、コロナの問題が浮上した途端、国民は「国は何をやっているんだ」と言い出した。結局、多くの人にとって国家権力とは、「自分たちにとって都合のよい時だけ、働いてくれればよい」という存在に過ぎないということが露呈した。

 ―外出自粛をめぐっても人々の解釈が揺れた。

 日本は元々、憲法や社会システムの中で、国と国民の関係が想像以上に緩い。つまり、基本的人権をここまで尊重している国はない。憲法を作った米国ですらびっくりするくらい、日本人は自由を束縛されることに強い抵抗感を示す。だから、国はコロナの発生当初、「外に出てはいけない」とすら言えなかった。

 しかし、そんな権限は本来ないはずなのに東京都の小池百合子知事が2020年3月下旬、「ロックダウン(都市封鎖)」発言を行った。あの時、多くの日本人は、抵抗感を持つよりも、安心したのではないか。ただし、それは言葉だけだったようで、実際にロックダウンなどできるはずもない。それまでとほとんど変わらず、外出自粛や休業を要請するだけだった。

「自粛」という2文字が持つ効果

 なぜこうした政治が日本で可能なのかというと、国は「自粛」という2文字がもたらす効果をよく知っているからだ。世界のほかの国で国民に自粛を要請したとしても、日本のようにはいかない。だれも責任を持って救ってくれないのなら、生きるために店を開けるのは当然だということになる。これが自粛という言葉に対する世界の判断基準だ。

 ところが、この国では「自粛せよ」と言われたらそれは「絶対」なので、ほとんど外国の外出禁止令に近いような力を持ってしまう。自粛を強要する社会の状況を見ていると、戦前・戦中の(国民を統制した地域末端組織である)「隣組」とはこういう感覚だったのだろうと思った。

 ―法律でなく、相互監視で人々の行動を縛っているということか。

 外出自粛期間中も、機会があれば外で食事をした。行きつけの店で聞いた話だが、午後8時を過ぎると、店の外でスマートフォンを持った人がウロウロしていて、翌朝見ると「店を閉めろ。恥ずかしくないのか」という張り紙が貼られていたそうだ。「何時だと思ってるんだ。8時だろ!」という、電話もたびたび掛かってきたという。

 きっと「良かれ」と思ってやっているから、まさに隣組と同じだ。戦後、あれは2度と行わないと反省したはずなのに...

 常連客からですら、「営業は止めたほうがいいよ」「おたく噂(うわさ)になってるよ」と言われたという。別の店では、午後7時になったらカーテンを全部閉め、看板の電気を消した上で、新規の客を入れないよう鍵まで閉めていた。

 店は自粛期間中を生き抜くため、法を守って仕事をしているだけなのに、それをとがめる人たちがいる。彼らは勝ち誇ったように「みんな我慢しているのに、なぜあなた我慢できないの」と責め立てるが、外出自粛中も給料がもらえるサラリーマンと自営業者は違う。休業中も家賃は必要であり、仕事をしなければ生きていられない。

 つまり、働かなければならない人は医療従事者だけではないのだ。そうした想像もせず、一方的に「自粛しているわたしは正しい、正義だ」と主張するのは恐ろしいことだ。改めて、この国の同調圧力の強さを感じる。「自分が我慢しているんだから、みんな我慢するのが当然だ」という考えにとらわれている。

 ―「我慢する側」のストレスのはけ口にもなっているのではないか。

 実際、みなが家に籠(こも)ることで、ドメスティック・バイオレンス(DV)は増えているし、狭い家に家族全員閉じこめられてストレスを感じる人も少なくない。ある意味、日本の素顔がたくさん出てきたと思う。

 つまり、個々人の自由を大事にしてくれる良さがある一方で、本人の良心に訴えるばかりで、国は何も責任を取らないという卑怯(ひきょう)な面が浮き彫りになってきた。

 さらに、国は強制力を持たない代わりに、民間人による「自粛警察」が日本中を闊歩(かっぽ)する。どこかのサービスエリアでは車のワイパーの下に、「県外の人は帰れ」と印刷した紙が差し込まれていたという。もはや手書きでない点にも驚く。

 この数カ月で、日本人の根っこにある良さと悪さが如実に出てしまった。最近、若い人には「今起きていることは、良い面、悪い面どちらも日本がこういう国だと表しているので、良く覚えておいたほうがいい」と伝えている。

原発事故後「正しさ」にしがみつく

 ―戦争の反省から、日本人は強制力や隣組的な発想を忌み嫌ってきた。ところが今回はそちらの面が強く出てきた。それはなぜか。

 長い目で見ると、お国のために滅私奉公した第二次大戦後、世界でも類を見ない高度経済成長を成し遂げ、1990年代くらいまでに大金持ちにはなれないけど、ほどほどの安定した豊かな生活ができる社会になった。その頃、日本の国家や社会のシステムに疑問を抱いた人は、そういなかった。

 しかし、国の旗振りで上昇した不動産価格や株価が、バブル崩壊で底が抜けた。国民の多くが財産を失うという、不測の事象が起こったわけだ。

 あの時に楔(くさび)が打たれたのだと思う。国民は「国の言う通りにしていると、損する可能性がある」と思い始めたのだ。さらに終身雇用制度などの維持が難しくなり、「真面目に働き続けたら、定年後は退職金でなんとか生きていける」という前提が崩れた。それでも我慢してきたが、今度は2011年に東日本大震災に見舞われ、原子力発電所の事故が起こり、国は守ってくれないことを思い知った。

 この時痛感した「自分たちはだまされていた」という意識によって、いわゆる「正しさ」や「正義」にしがみつく人が増えたと感じている。SNSの影響もとても大きくて、「あいつらは悪い奴らだ」というような単純なフレーズに簡単に乗ってしまう。あの震災以降、それが顕著になった。

 その反動で、「自分は正しい側にいたい」「被害者でいたい」「国家権力者はみな悪だ」という単純な図式が好まれるようになった。政治だけではなく、財界やメディアを牛耳るインテリが自分たちをだまして搾取し、いい思いをしていたんだと考えるようになった。

 マスメディアが伝えない「正しさ」を、自分で探さなければならなくなった人たちが頼ったのがSNSだ。正しいかどうかは、賛同の多寡で決まる。そこで影響力を行使するのが、フォロワー数の多い発信者だ。残念ながら、テレビをはじめとするメディアは、10万人以上のフォロワーを抱えるツイッターを毎日チェックしている。その上で、「だれだれはこう言っている、ああ言っている」と報道しているのだ。

 今回のパンデミック(世界的大流行)でも、本当の悪がいるとしたらウイルスだ。しかし、見えないので、それを蔓延させた人や嘘(うそ)の情報を流した人、予防に熱心でない人や我慢しない人が悪になる。それだけ不安なのだと思う。

 ―人々がすがる「正しさ」は非常に薄っぺらいものになっているのか。

 2004年に小説「ハゲタカ」を執筆して以降、東日本大震災まで座右の銘を頼まれたときは、ずっと「常識を疑え」と書いていた。それが最近は「正しさを疑え」と書くようになった。似てはいるがちょっと違う。

写真(写真)ホンゴユウジ
(提供)真山仁事務所

 常識は、モラルやルール、商慣習などを指す。それを疑えとは、「世の中必ずしもそうじゃないよ」というメッセージだ。だが、「正しさ」は、各人の思い込みがベースとなる。「正しくない」と分かった瞬間、その人の存在意義を失う可能性すらあるだけに、直視するのはすごく辛いことだ。

 「正しさを疑え」は、東日本大震災以降の日本社会において、とても重要なキーワードだと思う。正しさを決めるのは大勢である。中庸という言葉があるが、勝ち負けも白黒も気にならない悟りの境地であり、簡単には到達できない。

 社会はものすごく複雑であり、白黒単純に決められないことがほとんどだ。店を閉めたら食べられない人がいる、困る人がいる。さまざまな立場の人がいて、みんなが同じような答えを出せないから、民主主義がある。

70億人を支える文明の限界

 ―自然災害や金融危機、パンデミックなど世界には危機が次々と襲ってくる。地球が悲鳴を上げているように見える。

 頭の片隅に入れておくべきは、70億人という地球上の人口が多過ぎるのではないかということだ。温暖化問題や食料問題、今回の感染症の問題をはじめとして、自然の摂理の中で人間の英知をいかに駆使しても、そう簡単に撃退できない事象が次々と出てくる。黄信号が点滅しているのだろう。

 今の文明を以てしても、すべてを克服するには限界がある。振り返れば、リーマン・ショックは行き過ぎたグローバル化の果てであり、傲慢さを戒めるバベルの塔のはずだった。世界がドルでつながった挙げ句、一斉に迷路にはまり込む。それでも人間は懲りず、今度はウイルスに見舞われた。

 そういう意味で興味深いのは、今回のタイミングだ。反グローバル化の流れを受けて米国にトランプ大統領が登場し、欧州連合(EU)が崩壊の危機に陥ってブロック経済化が進むのではないかと見られていた時期である。一方、ブロック化すれば損をする中国がグローバル化を主張し、一帯一路構想を推進していた。そんな矢先にコロナの問題が起こったことで、中国の構想が全部止まった。ひょっとしたら世界は再び、グローバル化への警告を受けているのかもしれない。

 -そうであれば世界はどこに進むのか。

 シンガポールのような都市国家は1つの例となるだろう。あれだけ割り切った政策を推進できるのは都市国家だからと思う。北海道や東京も都市国家として自立し、貿易する。地方にも、自立の道を探ってもらう。巨大な国家より、まとまった小さな国のほうがよいと考えても不思議ではない。

 アフターコロナでは、人口や面積が国力の源泉ではなくなってくる。今回のコロナ対策でも健闘しているのは、小さな国や地域だ。台湾などはそのお手本といえる。

 都市国家ではないが、ニュージーランドもそうだ。昔、同国の留学生から、「なぜ日本は何でも一番になりたがるのか分からない」と言われて衝撃を受けたことがある。国土の面積は日本とそう変わらないのに、その潔さはすごいなと思う。引退した人が海外で余生を過ごす場所として、ニュージーランドは最も幸せな国の1つであるのも象徴的であり、考えさせられる。

 日本が「競争しない国」になれない理由の1つは、人口が多過ぎるからだ。今の半分くらいに減れば、この国は世界とほとんど繋がらなくてよい。(海外からの調達は)エネルギーと食料の一部ぐらいですむのではないか。

 ―コロナ対策では欧米と比べると、日本での死者数は少なかった。

 生活習慣や文化の違い、人種による遺伝的な問題、BCGの有無などさまざまな要因が指摘されているが、死者が少ないのはたまたまだと思うべきだろう。自粛でこれだけ規律が守れる日本だからうまくいったのではなく、不幸中の幸いということは絶対に覚えておかなくてはいけない。

 その点では、秋冬にもやって来るとされる次の「波」に備えておく必要がある。しかし、欧米並みの厳しい外出制限措置が必要だとか、憲法に緊急事態条項を入れるべきだといった議論を拙速に進めるべきではない。実は今でも国民の命を本当に守りたいなら、総理大臣が勇気を持ってかなりのことを決断できるはず。間違っていたら、責任を取ればよいだけのことだ。総理が強権発動できる制度を整えるかどうかの話ではないと思う。

 研究が進めば、コロナの実像はこれから段々見えてくる。抗体検査などで感染の実態が分かれば、今いわれている致死率も全然違う数字になるだろう。治療薬がある程度認可されたら、救える命は増える。人々が取るべき行動についても、今より知見が蓄積されているはずだ。

 それにしても、このウイルスの性質はやっかいだ。もし小説でこんな想定をしたら、編集者から、「これだけ致死率が低いウイルスじゃ無理だ。小説として成り立たない」とダメ出しされるだろう。しかし現実には、世界中をパニックに陥れている。考えてみたら、発症しないのに感染するというのは本当に恐ろしい。われわれの想像力では自然にはかなわないと、改めて思い知らされている。

写真(提供)真山仁事務所





真山 仁氏  最近の主な作品

写真

神域(上)(下)
毎日新聞出版
2020年2月29日発売

写真トリガー(上)(下)
KADOKAWA  2019年8月30日発売

写真

シンドローム(上)(下)
講談社 2018年8月3日発売

 

田中 博

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※この記事は、2020年6月30日発行のHeadLineに掲載予定です。

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